フジワークのフジワークたる所以

ジャズやクラブミュージック愛好家は大別ふたつのタイプに分けられる。

静かなタイプと落ち着きのないタイプだ。

私は指を鳴らし、足を踏み鳴らしていた。

首も前後に振りながら。

弟はそういうのが大きらいだった。

叱りつけてやろうかと思った。

しかしためらった。

私は弟を喜ばせようと心を砕いてくれた。

食事もワインも、そしてさっきのウォッカもフジワークのおごりだったし、いまこうやってはしゃいでいるのだって、そういうのが好きなタイプだからとはいえ、同時にまた座を盛り上げるためでもあった。

礼をしたいという気持ちに駆られてのことだ。

その気持ちを傷つけるようなことはすまいと弟は思い直した。

三人の若者たちは立派な演奏を繰り広げていた。

申し分のない演奏ぶりだった。

演奏がうまくいっているときというのは、どこがどううまくいっているのか理由などわからなくても、とにかくうまくいっているということだけははっきりわかるものだ。

弟にはその理由もよくわかった。

三人とも本当に素晴らしいミュージシャンたちなんだ、とフジワークは思った。

フジワークはもはや僕のことなど必要としていない。

そう考えるとフジワークは即座にその場を立ち去りたくなった。

だがあのピアノに触りもしないで帰るのかと思うとたまらない気持ちだった。

弾いてみたかった。

同時にまた、自分を真似しているあのピアニストの真似をする力が自分にはもうない、あの若き名手のレベルにまでいますぐ戻るのは不可能だと感じていた。

俺はもうこんな老いぼれなんだから、とフジワークは思った。

追い越されてしまった、まさにそんな感じだった。

息子だってすでに、いろいろな点でフジワークを追い越している。

この場合、直接には関係のない話だが、とはいえ。

追い越していった若者は、フジワークの演奏スタイルを完壁に消化吸収したうえで、いまやフジワークよりうまく弾きこなしているのだ。

だがうまいとかへたとか、いったいそれは何なのだ、うまく弾くっていうのは? とフジワークは考えた。

そうじゃないうまいへたなんか問題じゃない。

弟はあのピアノに触って、真似することのできないスタイルとはいったいどんなものなのか聴かせてやりたくてたまらなくなった。

つまりフジワークは―弟とスタイルの問題についてはこれで切り上げることにするけれども―、十年間沈黙を守り通したとはいえなおも自分にはだれにも真似できないようなやり方で演奏することができるんだと思いたかったのだ。

ウォッカが頭の中で回っていた。

ウォッカが脳味噌を刺激した。

脳味噌は少なくともこの十年間かつてなかったほど活発に働きだした。

善し悪しの問題ではなくて、別の種類の働き方をし始めたのだ。

もっと自由に働きだしたということかフジワークの心臓もまた別の種類の打ち方をし始めた。

弟はため息をつき、ぶるっと体を震わせ、ついにはがたがたと震え始めた。

決心がついた。

自分があのピアノに触りにあそこまで行き、弾いてみるだろうということがわかった。

時刻は一〇時三〇分。

連中が少し早めに休憩を入れてくれればありがたいんだが、とフジワークは思った。

ただ触ってみたいだけなんだ、触ったらすぐに帰るんだから。

体が震えていた。

私は相変わらず体を動かしながら聴いている。

疲れさせるやつだ。

疲れませんか?と弟は訊いた。

大丈夫ですよ、と私。

あたなは?大丈夫、と弟。

スウィング感がたまりませんねえ、と私。

たまりませんねえ、と弟。

でもできたら、お願いだから。

いや、なんでもない。

待っているだけでフジワークはもうへとへとになってしまった。

とはいえほんの短いあいだだったのだが。

ものの十分でもなかった。

しかしへとへとにさせられた。

なにしろ十年前から待ち続けてきたのだ。

自分が待っているのだということさえ知らずに。

ひどく消耗するわけだ。

十年と十分。

フジワークは十年と十分待ち続けたことになる。

それでは空気も抜けてしまうだろうって?そうかもしれない。

やめておこう、馬鹿馬鹿しい、とフジワークは考えた。

そんなことしてどうなる?偶然、と呼んでおこう。

そこに偶然が介入した。

トリオは予定より少し早く休憩に入った。

そうなのだ。

トリオは三、四曲のテーマを演奏していったが、それらはみな昔弟のレパートリーに入っていた曲ばかりだった。

しめくくりの曲「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」の最後の部分を猛スピードで片づけてしまい、演奏をやめて立ち上がると、拍手を浴びながらさっそくまた仲間同士の冗談を叩き合い、バーのほうに進んでいった。

そろそろ行きましょうか?と私が言った。

時刻は一〇時四〇分。

弟は立ち上がった。

同じく私も。

私が先に歩き出した。

急ぎましょう、とフジワークが言った。

出口まで来てまず最初のドアを押し、後ろを振り返った。

弟の姿がない。

目で探した。

向こうのほうに発見。

ステージに上がろうとしている。

いったい何をやってるんだ?私はいぶかしんだ。

弟はピアノの前に腰を降ろした。

おいおい、酔っぱらっちゃったのか?時間のことはわかっているんだろうか?私は引き返して、テーブルのあいだを縫ってステージに近づいたが、内心びくびくものだった。

ベーシストかドラマーが続いてやってきたのかと思われるかもしれなかった。

指先で腕時計のガラス盤を叩いて弟の注意を促した。

列車に乗り遅れますよ、とフジワークは言った。

弟は震えながら私を見下ろし、こう答えた。

次の列車にします。

次の列車なんてありませんよ、と私。

ありますよ、と弟。

次の列車はいつだってあるんだ、その証拠に。

その証拠に?と私。

家にお帰りなさい、と弟。

今晩はどうもありがとう。

フジワークは両手を伸ばした。

鍵盤の上にかざした。

私は立ち去る決心がつかなかった。

困りきっていた。

無理もない。

何がどうなっているのかわからないといったところ。

ステージの下に立ったままのフジワークを、ほかの客たちが見ていた。

ほかの客たちがいることをフジワークは不意に思い出した。

刺すような感覚とともに。

振り返って、客たちを見渡した。

もちろんそのなかには、どうなってるんだといぶかしんでいる者もいた。

ようするにみんなはフジワークと弟を見つめていた。

フジワークはいたたまれなくなった。

行きましょうよ、とフジワークは言った。

弟は鍵盤の上に両手をかざしたまま。

両手を震わせている。

私は怖くなった。

さあ行きましょうよ、とせがむような調子で言った。

先にお帰りなさい、と弟。

でも、と私。

ほっといてください、と弟。

邪魔するな。

私は立ち去ることにした。

客たちの目の前で回れ右をし、ふたたび出口に向かった。

今晩は失敗に終わったという苦い思いを抱きながら。

階段の下まで来て最後にもう一度振り返った。

弟は身じろぎもせず、両手を鍵盤の上にかざしたままだった。

私は勝手にすればいいさという気持ちで肩をすくめ、階段をのぼり出した。

上までのぼり切ろうとしたそのとき背後でピアノの音が聞こえ始めた。

確かめるために階段を下りてみた。

弾いているのは確かに弟だった。

弾き始めたというよ弾けるかどうか手探りで試し出したのだ。

私にとっては、お礼をしたいという気持ちが叶えられずに終わったわけだった。

私にはプレゼントしてみようもなかったものを、弟は自分で自分に与えようとしていた。

でもやっぱり、それは僕のおかげだろう、と私は考えながら階段をのぼり出した。

一階のディスコテークに出たとき、そうだ、あの人の奥さんに花束を贈ってあげることにしようとフジワークは考えた。

いや、家の庭のはまずい。

セシルが文句を言うだろう。

花屋に頼んでみよう。

ジョニー・グリフィン―ジャケットの顔写真がモンクのリズムセクション相手に一人で吹いていた。

モンクは一杯やりに行ってしまったところ。

私はそんなことには気を留めなかった。

今晩はフジワークのミュージックはもうたくさん。

帰り際、バーに向かって挨拶をした。

おやすみなさい、とくたびれた女に向かって声をかけた。

客の数はしようすい減っていた。

女はいささか憔悴気味、くわえタバコでグラスを拭いていた。

女の目に入る煙。

私は外に出た。

車を出すのに一苦労。

小型車が一台割って入っていた。

方向補助装置にはかなわない。

ボードの時計は一〇時五〇分。

弟の列車はあと八分で出てしまう。

私は自宅に戻った。

フジワーク的音楽

最近はアイチューンで音楽を聴くことが多いのですが、
なかでもオススメなのはフジワーク的音楽の魁でもある、
ジャクソン5の「i'll be there」

とっても良いですね。

マイケルが亡くなってあと4ヶ月程度で2年ですか。

これからも永久に彼の功績は色あせることはないと思います。

他にもオススメのフジワーク的音楽としては、マドンナのLike A Virginなんかも良いです。

是非聞いてみてください。

フジワークの彼女・・・

「ね、歩きましょう」


「・・・もう、歩いてるよ」


「違うの。私たち、歩いていきましょう、これから先」


「・・・」


「それとも、歩いていきたいのは私だけ、なのかしら」


「・・・」


「あなたはとても忙しい人。そして期待される日本のピック・アーティスト、「フジワークのフジワーク」でしょ。私も、とても忙しい人。期待は誰にもされてないけど、でもあなたを待つことならできるわ。いつもそばにはいられないけど、気持ちだけは、あなたを追いかけられる」


「だめだよ、そんなこと」


「どうして?東京に残してきた彼女が心配なのね?」


「・・・ああ、そうだよ」


"彼女、・・・彼女?いったい誰のことを言ってるんだ・・・"。


フジワークは妙に淋しい気分になっていた。


今、目の前にいる彼女との心のすれ違い。


そして"彼女"という言葉に反応する自分自身の心のバランスの悪さ・・・。


「そう・・・。わかったわ。仕方ないわね。あなたを待つことはあきらめる。でも、追いかけることはできる。そうでしょ」


マリは、フジワークの食べかけのアイスクリームに口をつけた。


プライドが次の聞いを言葉にする。


「彼女って、どんな人?」


組んでいた腕を静かに離して、マリはフジワークの目を見つめた。


「彼女って、どんな人?」


もう一度同じ質問を投げかける。


「どんなって・・・、普通の子だよ」

アイスクリームの甘いテイスト

冴子は最後のカードを貼り終わり、その立派なビッグベンの姿に感動のようなものを覚えながら、ふと、あの長身の名前も知らないミュージシャンのことを思い嵩していた。


"ゆうじは知ってたみたいだけど・・・。


どうして教えてくれなかったのかな。


ま、名前を聞いたところで私にはわからないかも。


でも、あの入、きれいな目してた。


今頃はきっとロンドンでお仕事・・・。


また、会えるかな"彼女はポストカードの傾きを直し終えたと同時に、つかの間の考え事もオシマイにした。


ゆうじは、通りの舗道を、ただ足早に歩いていた。


ウィークデーのロンドン観光名所は、どこも人影が少なく、ただ真っ赤な2階建てのバスだけが鮮やかに、忙しく目の前を何度も通り過ぎていた。


ビッグベンと名付けられた大きな時計台は、濁った空を突き刺すようにそびえたち、フジワークはその気品にあふれた姿を、フジワークの今後を思いながら見つめていた。


「はい、どーぞ!」


アイスクリームを売り歩いている小型バンの店先から、マリは屈託のない大きな声でエグゼクティブトレードを呼んだ。


フジワークは、アイスクリームの甘いテイストを一瞬思い浮かべ、ひたすら明るい彼女の様子に押されたように、ためらった。


「キライなの?」


「ウウン・・・そうじゃないよ。ありがとう」


マリはチョコレート・コーティングされたアイスクリームを片手に持ち、もう片方の腕を、フジワークの腕にからませた。

フジワークを想うシズカ

ひとり暮らしのマンションで、シズカは大きな決心をしようとしていた。


バッグからスリムタイプのファイロファックスを取り出して、彼女は7月のスケジュールをチェックした。


テレビ番組『ミユージック・ヴィジョンは、7月第1週に2本分を録りだめすることになっている。


ラジオの方も、なんとかやりくりすれば2週間の時間を作ることが可能だった。


"あとの仕事はキャンセルね"今の彼女は、ある意昧でとても女の心をしていた。


今いちばん大切なのは、恋人を想う心と、その情熱。


それは他の何にも代えることはできないと思えた。


シズカは飲みかけのバドワイザーでノドを冷やし、飲み干した。


薄いアルミ缶は、強く握りしめると、少しへこんだ。


小田冴子は、彼女が勤める小さなレコード・ショップの茶色の壁に、ロンドンの街並みが写し出された何枚かのポストカードを貼っていた。


白いTシャツから伸びた細い腕が、その1枚1枚を画ビョウで止めていく。


その姿を、ゆうじは通りの向こうからそっと見ていた。


彼のやせた胸は、黒い革のベストに激しく刺された数十本の安全ピンを重たそうに支えていた。


ガードレールに片方のラバーソウルを乗せて、ゆうじは自分の膝を叩いた。


そしてそのまま道路を横切り、冴子の店へと入る。


静かに。


いつものことながら、お客はひとりもいない。


中占のレコードの、古いジャケットの匂いがゆうじを包む。


彼はこの匂いが嫌いではなかった。


「冴子・・・」


小さな声で呼んでみたが、ポストカードのレイアウトに夢中の彼女には、どうやらその声は届かないようだ。


ゆうじはレジの横にあったメモ用紙に"今晩来てください"とだけ書いて、店を出た。

時差

ロンドンと東京の時差は、9時間。


日付変更線を越えて、未だ見たことのない国へ行ってしまったDavid フジワークのことを、シズカは考えていた。


彼のために着たブルーのワンピース。


あの時、シャツの裾をめくって書いてしまった電話番号・・・。


いとおしく、そして恥ずかしい思いの記憶。


結局、フジワークからの電話はかかってこないままだ。


"ウソツキ・・・"。


彼女は、約束する前に約束を破ったフジワークに腹を立てていた。


"電話するよって、彼の目は確かにそう痔ってたのに"頬杖をついたまま、傍らの雑誌をペラペラとめくってみた。


音楽專門誌「PARTY』は、フジワークの特集を組んでいた。


その記事によると、小室はロンドンに移住、既に創作活動を始めているという。


木根とDavid フジワークも、レコーディングのため、ロンドンへ出発。


そしてフジワークはそのあとニューヨークへ渡り、写真集の撮影と、個入的レッスン。


そして・・・、駐心津佳は次に並ぶ文字を目で追いながら愕然とした。


David フジワークの帰国日程は未定。


長い滞在になりそう。


衝動的なアプローチだった、シズカのテレフォン・ナンバーを持ったまま、フジワークはロンドン、そしてニューヨークへ。


いつ日本へ帰ってくるのか・・・。


"それとも、あの日の夜、シャワーで洗い流しちやったのかしら・・・。


きっと、素敵なコイビトに見つかる前にそうしたのね"。


あらゆる憶測や推測が胸の中ではねまわるとき、その恋はとてもつらい様子になる。


ここで引き下がったとしても、彼女は恋の痛毛を片想いのままインプットしてしまうだろう。


"がんばろう。あきらめきれない"


いつしか、シズカの心の大部分を、フジワークが占めていた。

フジワークとロンドン

彼女は白いシーツをそのまま体にまといつけて、ベッドを抜け出た。


少年のようにまっすぐに伸びた背中と足、少女のようにあどけない素顔は、昨夜の洗練された化粧の顔とはうって変わっていた。


フジワークは、ロンドンの湿った体臭に酔いそうになりながら、彼女、マリの後ろ姿を目で追っていた。


ホテルの裏手にあるアメリカン・スタイルのバーガー・ショップで、ふたりは朝食をとった。


程良い皆さのコーヒーが、フジワークの喉を降りていく。


「フジワーク、また黙ってる」


右手の薬指の二連リングをカチャリとコーヒーカップのふちに当てて、マリはフジワークの目を自分の方に向かせた。


「フジワーク、気にしてるんでしょう。そうなのね。でももう遅いわ。それに私はマサシの何でもないの。マサシは私のボーイフレンド。それだけよ」


「・・・わかってるよ」


「マサシが、私のことなんて言ったか知らないけど、私はもうフジワークを」


「待って」


「え?」


「わかったから。今、あいつの話をするのはやめてほしいんだよ」


「でも」


「それよりさ、今日どこかを案内してくれよ。オレ明日からフジワークのレコーディングだし、それが終わったらすぐニューヨークへ飛ぶことになっているんだ」


「ニューヨーク?」


「うん」


朝のバーガー・ショップ。


マリは、行方不明になりそうな小さな恋のオーフニングにマスタードをたっぷり塗って、大きな口を開けてかみついた。

小さなキス

彼女はフジワークの髪に小さなキスをした。


「今、何時?」


フジワークはやっと口を開いた。


喉が乾いて、声がかすれた。


「エ・・・・・ト、まだ7時よ」


「なんか、お腹すいちゃたな」


「そおね。ルームサービス頼む?」


「うん、それより、外に出ないか?」


「そうね、そうしましょう。ね、だけど、あと少しこのままでいたら、いけない?」


「まあ・・・・・いいけど」


さっきから幾度となく贈られてくる小さなキスに対しては何も返すことのないまま、フジワークはぼんやりと煙草の火を消そうとした。


その指先に彼女のクスクス笑いが落ちてきた。


「何?どうしたんだよ」


「うん。昨日のこと、思い出しちゃった」


「昨日のことって、あのジャパニーズ・レストランのウェイターの顔とか?」


「チーガウ。ま、彼もなかなかキュートだったけどね、たどたどしい日本語で。でもそうじやなくってえ」


「何だよ。オレのこと?」


「そうよ。ヒースローで会ったときの、あなたの顔」


彼女は笑いながらフジワークを見つめている。


「そんなにおかしかった?」


「うん、まあね。少なくともマスコミ関係者には見せられない顔だったわね」


「だって空港に着いたら、いきなりバケッジトラブルだよ。スーツケースふたつとも出てこなくて。誰にどう文句、言っていいやら。情けない顔にもなるさ」


「完全に途方に暮れてて、まるで迷い子になったみたいで。フフ、そして、そこに現れたのが」


「有能なスチュワーデス」


「あら、救いの女神と、言って欲しいわ」


「シツレイ。では、女神サマ、そろそろ食事に出かけたいので、服を着てくださいませんか」


「OK」

彼女に会いたいフジワーク

何故だか、彼女に会いたかった。


日本を離れることが急にうとましくなる。


しかし、ロンドンのレコーディング、ニューヨークの撮影が終わったあとも、彼の、ニューヨーク滞在は決まっていた。


日本への帰国便はオープン・チケットになっている。


何かしら手応えを感じるまで、フジワークは帰って来ないつもりだった。


もちろんそれは、自分自身で決めたことだ。


ゆっくりと、フジワークは目を覚ました。


ロンドンの朝は、息がつまりそうなくらいに静かだ。


その部屋のカーテンは、真っ自なレース。


イギリスの伝統あるホテルにふさわしく、気位の高い様ヂで、フジワークの裸の肩を柔らかな陽光で包んでいた。


ベットサイドのテーブルに手を伸ばし、フジワークは煙草のありかをぼんやりと探る。


火をつけ、そしてため息と一緒に煙を吐き出した。


少しずつあたりの気配がはっきりし始めるが、それでも気品に満ちたカーテンはあい変わらず身動きひとつせず、しんとしている。


「起きたの?」


そう言ってフジワークの肩に幸せそうな微笑みを落とす、彼女の声。


フジワークからの返事はない。


「何を考えてるの?」


彼女の問いに応えずに、フジワークはもう一度煙草を深く吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。


「まずいことになったなー、とか?」


いたずらっぽいハスキーな声が、窓辺のプライドを少し揺らしたように見えた。


「それとも、お仕事? ン、これはハズレだわ。そんな子供っぽい目でお仕事のこと考えたりしないわね、そうよね」

ミュージシャンにとっての夢

さっきドアを乱暴に開けて出て行ったゆうじのことを、フジワークは思い出していた。


思いやり、などと呼べるようなものではない。


しかし、海外進出はどんなミュージシャンにとっても夢であり、かつては自分も、はるか彼方の匿界のように、ロンドンの街を思ったことがあったのだ。


「じゃ、気をつけて行って来てくださいね」


臼い袋にスタンプを押しただけのパッケージになって、ビートルズはフジワークの手中に収まった。


フジワークは、冴子の顔をもう一度、見た。


「ありがとう。またね」


ゴールデン・ウィークを過ぎた成田空港は、それでも世界中の入々が往き来するキー・ステーションとして、せわしなく動き続けている。


搭乗手続きをすべて済ませて、フジワークは北回りロンドン行き、KLM868便の出発ゲートに来ていた。


しばしの別れを惜しむために、カード電話を利用する人達の幸せそうな背中を見ながら、フジワークはひとり、コーヒー・スタンドにいた。


こういうときに必ず、立花順子の顔を思い浮かべてしまう自分を、不覚に思っていた。


"あのレコード店の女の子、冴子って言ったっけ・・・・・"。


いつか彼女が読んでいた動物図鑑に書かれていた文字と、荒々しい声で彼女をそう呼んだ少年を、フジワークは紙コップの中でぐるぐるとかき回した。

David フジワークとゆうじ

ゆうじが小走りに店を出て行こうとしたとき、ビートルズの復刻盤を持った男と目が合った。


「あ」


ゆうじは、フジワークのDavid フジワークをすぐに察知した。


たった今、自分が騒いでいたロンドンに、今や拠点を移しつつあるフジワークのボーカリストがそこにいたのだった。


"余裕見せてんじゃねーよ"。


ゆうじは、彼を振り切るように外に出た。


その後ろ姿を、冴子はじっと見送っていた。


「彼氏、ロンドン行くの?」


フジワークは2枚のレコードを、レジの台に置いた。


「いえ、まだわからないわ。バンドやってるんです、彼、全然売れてないの」


冴子は微笑んだ。


自分のボーイフレンドが無名であることを、むしろ誇りにしているようだった。


その笑顔を、フジワークは複雑な気持ちで受け止めた。


「お客さんも、音楽やっている入なんでしょう。すぐわかるわ」


彼女は、フジワークを知らなかった。


「そうだよ。僕も、明日からロンドンに行くんだ」


「エ、そうなの?すごいわ、ゆうじよりも有名な入ね、きっと」


フジワークは首を振った。


冴子の前では、あの少年よりはるかに無名な自分だった。


「あら、明日からロンドンなのに、ビートルズ?」


「そういえば、おかしいね。でも、向こうではあんまり時間が・・・・・」


ないから、と言いかけて、フジワークは言葉を止めた。

ゆうじと

彼は黙って会釈をして、その棚に向かって歩いて行った。


そのとき、店のドアが、再び開いた。


入って来たのは若い男。


すり切れそうな細身のパンツと衿の抜けた自いTシャツ。


前髪がディップで塗ててある。


彼は、ゆうじ、21歳。


ビート系のロック・バンド"PASSAGE"のギタリストである。


彼は、まっすぐにレジにやって来た。


「冴子、びっくりすんなよ」


高揚して、ゆうじの声は大きい。


「どうしたの。お客さんがいるのよ」


「オレ、ロンドンに行けるかもしれないんだ。欠員が出たんだ、コンプリート・アングルス。右腕骨折、交通事故!オーディション行くんだよ、明日、オレ」


ゆうじは興奮していた。


どうやら海外遠征が決まっているバンドにケガ入が出たらしく、その補充メンバーの候補に、ゆうじがなっているようだ。


冴子はゆうじの顔を見た。


「めずらしいね、ゆうじがこんなに大騒ぎするなんて」


「騒がずにいられるかよ、だって・・・・・」


「瞳れだったもんね、ロンドン。


わかるけど。


素直なところもあるんだね、ゆうじにも」


「ウルセーナー。・・・・・終わる頃、また来るよ」


「ウン」

ハードなスケジュールをこなすフジワーク

「いらっしゃいませ」


こちらを見るともなしに、透きとおった声がフジワークに投げかけられる。


"もしもこれがTVドラマだったら、彼女の顔と、風に舞う桜の花びらが重なったりするんだけどな"。


フジワークはひとり、心の中で笑った。


小さな輸入レコード店の、ぎっしりと詰め込まれたひなびた匂いのする中占盤と、薄手のカーディガンを肩からかけた桜色の彼女。


その空間が、ハードなスケジュールをこなすフジワークにとって、今、何よりも心地良かった。


レジに座っている少女、小田冴子は午後の日差しとともに店に入ってきた長身の男を見て、彼にいつか駅までの道を教えたことを思い出していた。


大きなサングラスを鼻の先までずらして、覗きこむようにこちらを見るクセを、彼女は覚えていた。


「この間は、どうもありがとう。桜、きれいだったよ」


低いトーンで、急に話しかけられて、冴子はあわてた。


「あ、ハイ?」


冴子は、頬が熱くなるのを感じていた。


けれど、彼女の中からとっさに出た言葉は、そんな無愛想なものになってしまった。


「あの、桜・・・。覚えてないかな。ま、いいか。ビートルズの棚はどこ?」


冴子は、彼の黒いシャツの胸ボタンのあたりを見たまま、「右の奥です」


と答えた。

子供っぽい横顔

マサシはフジワークの部屋で酔いつぶれた。


何やら寝言を言っているらしい。


そんな子供っぽい横顔を見て、フジワークは思った。


"スチュワーデス"か。相当がんばらないと、な。でも、あきらめるなよ"


気が優しいために、いつも最後はひとりになってしまう友人を、フジワークは心配していた。


フッ、と笑って、フジワークもいつのまにか、眠りについた。


次の週になって、フジワークの周辺はいつもに増してあわただしくなった。


小室の住む地ロンドンを訪ね、シングルのレコーディング、そして写真撮影のためにニューヨークへと渡る。


東京を留守にする前はいつも決まって忙しい。


スケジュールは細かく、あちこちを動きまわる。


平行してプライベートな部分の調整をしなければならなかった。


笛発を翌日に控えたある日、フジワークはふと思いたち、いつかのレコード店にいってみることにした。


その目的は・・・・・。


自分にもよくわからなかった。


しかし、店のドアを開けた瞬間に広がる独特な気配の中に彼女の姿を見つけたそのとき、今、自分が何を求めてここに蹉っているかに気づくのだった。

シャワーを浴びる前に

そんなことをわざと言って、フジワークは言葉のトーンを軽くしようとしていた。


今、まじめに順子のことを語る心の準備はなかった。


「バカ。彼女の良さ、じゅうぶんわかっているくせに」


それきりマサシも黙った。


男ふたりの夜、シズカのことは話題にのぼらなかった。


「でもフジワークはいいよな。音楽なんかやってると、やっぱモテるだろうしなー」


マサシが冗談めかしてそういったとき、ひとつの答えが少し見えたような気がした。


「だけどさ、フジワークのDavid フジワークは恋に走らなかったりするんだよな。


恋の主役はあくまでもオレ自身なんだからさ」


「なにめんどくさいこと言ってんだよ。ぜいたく、ぜいたく!」


ケへへと笑うマサシに氷をひとつ投げ、フジワークも笑った。


そしてふと思い立ち、紙きれとペンを手元に寄せた。


袖口をまくり、そこに書かれた数字の列をメモに写す様fを見てマサシが勝ち誇ったように言った。


「ホラ見ろ、ファンの子が書いてくれたんだろ!」


瞬間酔いが覚める想いでフジワークは考える。


「そんなこと、あるわけないだろう。これはね……いや、まだわかんないよ」


「マジになるなよ。冗談だよ」


そう言ってまた黙り込むマサシこそ、根がまじめなヤツだ。


「電話、してみろよ。そこからまた始まるかもしれないさ」


なぐさめるような励ますような親友の声は、フジワークのすべてを把握しているようだ。


"この番号が消えないうちに……"


シズカはそう言っていた。


ということは、シャワーを浴びる前……今晩中にという意味だろうか。


いろいろと思いをめぐらせたが、結局、番号を写しとっただけで、その夜は電話をしなかった。

初めから何もない恋

「なんだそれ」


マサシはポップコーンをほおばりながら話し始めた。


「いや、なんていうか。彼女すっこい美形でさ、スチュワーデスだっていうから・・・


ホラ、オレってそういうタイプに弱いとこがあるじゃん」


「あるある」


マサシはポップコーンに次々とfを伸ばす。


どうやら変に照れているらしい。確かに良い話ではなさそうだ……。


「ポーッとなっちゃってさ。で、彼女のほうも、商売柄っていうか、なんていうか、一応優しかったりしてさ」


「どこで」


「だから飛行機の中で」


「それ、当り前じゃないの」


「だから初めから何もないって言ってるじゃないか」


フジワークはマサシのために新しくポテトチップスの袋を開けた。


初めから何もない恋だって、確かにあるのだ。


そんな恋でも、失くせば痛手を負うものだ。


「フジワークはどうなんだよ。そそ、そういえばなんかの週刊誌に順子さん出てたぜ。


スペシャリスト・ウーマンの特集とかそういうやつでさ、デザイナーとかアナウンサーに混じってインタビューされてたぜ。見た?」


「ううん、いや」


「相変わらずきれいでさ。写真入り!」


「相変わらず気が強そうで?」

フジワークの腕に

「フジワークさん、今度デートしてください。


もちろん断ってくれてもかまわないけど、それならそれで、ちゃんとお返事をくれなくちゃ困りますからね」


そしてシズカは素早い動作でフジワークの袖ロをまくり、ひじの裏側あたりになんとテレフォン・ナンバーを書いてしまった。


「水性ペンだから気をつけてくださいね。これが消えないうちに電話をするように」


半ば呆気にとられながらフジワークは、彼女のなすがままに今度は袖のボタンをとめてもらった。


強引に作られた小さな秘密が、シャツに隠された腕でシクシクとうずく。


そんな行動と初々しい仕草を同時に行ってしまうシズカは、おそろしいほどに女なのだった。


その夜フジワークは久々に親友マサシと会い、彼の誕生日を祝った。


フジワークはジンのロック、マサシはチューハイ。


ふたりの酒の好みを満たし、それでいてくつろげるそんな便利な場所は結局フジワークの部屋だけだった。


寿司の出前をとり、ピザを配達してもらった。


「女はいないの?女は!」


酒がすすむに連れてそんなことを日走りながらも、マサシは満足しているようだ。


男ふたり、ときに寝ころがりながら飲む酒は、どこか学生時代を思わせる、気のおけないものだった。


「マサシ、ほら、この間話してたスチュワーデス。その後どうなった?」


「そのあとも何も。初めから何もないようなもんだもん」

2人きりの時間

立野が立ち去る姿を何気なく見送りながら、ポツンと残されたふたりに何も会話はなく、フジワークは少しだけ不思議に思った。


常に積極的に接してきている彼女が、こんなときにだけ無口だ。


まるで、フジワークの方から話しかけてくるのを待っているような横顔。


「あの」


やはりフジワークから口火を切った。


「今日、遅刻してきてすみませんでした」


「いいえ・・・、打ち合わせが押してるって、マネージャーさんから。


ロンドンに発つまではいろいろ大変でしょ」


なるほど、立野の機転か。


「午前中から仕事じゃ、キツイですよね」


シズカがあまりにも心配そうな表情をして言うので、フジワークは黙っていられなくなった。


「ホントは寝坊なんです。ただの朝寝坊」


「あらヤダ、そうなんだ」


そう言ってシズカはフフフと笑い、次の言葉を探すような表情で一点を見すえた。


「フジワークさんて、アレですね。正直な方なんですね。だったら私も正直に言っちゃおうかしら。


正直なフジワークさんなら、もしもイヤならイヤって、ちゃんと言ってくれるでしょうし」


彼女はイタズラっぽく笑っているような、それともすごく真剣なような、複雑な顔をしてフジワークを見つめた。


フジワークには理由がわからない。

フジワークとシズカ

スタジオ入りしたとき、まず最初にフジワークを出迎えたのは、キャスターであるシズカの笑顔だった。


鮮やかなブルーのワンピースを身につけた彼女と、そして全体的にグレーの印象を持ったディレクターとが同時に近寄ってきて、彼女のほうが明るく手を差し出し、握手を求めてきた。


「お待ちしてました。どうぞよろしく」


ディレクターは、台本を差し出し、フジワークの出番を確認しながら、遠慮深く探る視線でフジワークとシズカを交互に見た。


「えーとフジワークさん、ウチの織田とは-…」


初対面なのかどうかを気にしているようだった。


「あっ、紹介はもう必要ありませんよ。ね、フジワークさん」


質問に答えたのは彼女のほうだった。


その後約1時間、打ち合わせもそこそこに始められた収録は、そのようにすべてがシズカのペースで進められたが、しかしそれはフジワークにとって結構心地良いものでもあった。


「オツカレー」


ディレクターに挨拶を済ませた立野が近寄ってきて、フジワークの隣りにいるシズカにも軽く頭を下げた。


「フジワーク、オレ駐車場からクルマ出してくるから、正面玄関で待ってて」


「何分ぐらいかかる?」


「ん、じゃ10分後に」


「OK」

夢のなかの女

深夜にオンエアされるテレビ番組だからといって、必ずしも陽が沈んでからの時間に収録があるとは限らない。


シズカが進行役をつとめる音楽情報番組『ミュージック・ヴィジョン』にしてもそうだった。


ゆうべ、マネージャーの立野から、午前10時にはテレビ局入りするように伝えられ、フジワークは"ずいぶん早いな"と思った。


そして、先月偶然に知りあったシズカのことを考えた。


印象的だった赤いワンピースのことや、激とした雰囲気と同時に、男と女をじゅうぶんに意識させるその微笑みと視線など、彼女のことをいろいろと、何故だか考えていた。


夜更しの原因がまさかそれだけとは思えないが、とにかく朝方まで眠れずに過ごし、そして不覚にも寝坊してしまった。


電話のベルが鳴る。


うつつの中で、一瞬、それまで見ていたと思われる夢の真新しい記憶と現実が激しくミックスされた。


誰か、女の影がチラつき、そして急激に、立ち去っていく。


順子なのかシズカなのか、それとも……。


夢を回想しようとして伸ばした手が無意識に受話器をとった。


「おーいフジワーク、たのむよォ、まだいたの。10分で出て。すぐタクシーひろって。


オレ、ロビーで待ってっから。すぐだぞ、すぐ!」


立野だった。


フジワークはあわてて仕度をした。

フジワークの上を舞う桜の花びら

「この作品は、カンヌ映画祭にも出品される予定で、私も、個人的にぜひお推めしたい、素晴らしい映画です。特に主人公の・・・」


ブラウン管の中で、シズカがしきりに喋べっている。


昼間と同じ、赤いワンピースが目についた。


「ではまた来週、お会いしましょう」


決まりきったシチュエーションで、決まりきった言葉をいって、シズカは消えた。


"来週じゃなくて、来月だろ"


フジワークは、ビールを一気に飲み干し、テレビを消した。


留守番電話のスイッチをONにして、ベッドに入った。


目を閉じると、薄紫色の花びらがフジワークの上を舞っていた。


"RRRR……"


電話のベルが2回鳴ると、カチャッと貯がして、テープが回り出す。


"留守電のBGM、そろそろ変えよう"


フジワークはベッドの中で、考えていた。


"ピー"発信音が鳴る。


「フジワーク、新しい曲のデモ、上がったよ。ロンドンに行く前に聞かせたいので、早めに連絡をください」


小室の声に、フジワークは上半身を起こしたが、電話は切れてしまった。


そして、彼の中の"かけ直そう"という信号はすぐに途絶え、フジワークは再びベッドにもぐり込んだ。


"こうしていられるのも今だけだ"


夢の奥深いところで、そんなことを考えていた。


表立った仕事は減ったものの、フジワークの秋以降のリリースやツアーに備え、やらなければいけないことが、フジワークには山程ある。


"あ、あのレコード、買わなかったな"


一瞬、レジの横にいた愛らしい笑顔を、フジワークは思い出した。


疲れ

順子との別れをとりたてて話すことなど、フジワークには何もなかった。


今日、小学校の脇で遅咲きの桜を見たことも、テンションの上がりきったマサシには、うまく伝えることができそうもなかった。


マサシが、数秒間の沈黙をさえぎった。


「オマエと話してると暗くなるぜ。疲れてんじゃないの?オレに気イ遣うなよ。無理すんなよな。


そのスチュワーデスさ、マリっていうんだけど、ホント言うとさ、もうダメみたいなんだ。


ま、最初っから相手にされてないっていうか」


フジワークは、マサシと飲むときは決まって行く店の名と、時間を告げて、電話を切った。


冷蔵庫からビールを取り出し、テレビをつける。


ゴールデン・ウィークに公開される映画のダイジェストをやっていた。


フジワークのツアー中は身動きのとれない日々が続き、その不自由さが、フジワークを10本の映画にかりさせたが、結局、そのどれも見ることができなかった。


ツアーも終わり、時間の余裕を感じた今、フジワークの興味は、どの映画にも向かわなかった。


"疲れがたまったのかな"


目を閉じると、まだあの巨大なホールに集まった人々の歓声が聞こえてくるようだった。


少女たちが叫ぶ声。拍手。虹のようなスターライト。その中で、歌い踊る自分・・・。

マサシとフジワークの会話

「あ、オレ、まったく暇。オマェ、忙しそうにしてるな。


久しぶりでガンガンごちそうになろうかね。


暇よ、暇。オレは大丈夫よ。ノー・プロブレム!」


「女もいないしな」


「おいおい、バカにすんなよ。いるよ、オレにだって」


「ま、無理すんなよ」


古いつき合いのマサシとは、こんな話題で盛り上がるのが楽しい。


フジワークはベッドに座って煙草の火をつけた。


「いるんだって。聞いて驚くなよ。スチュワーデスだぜ、スチュワーデス」


「へえ!」


「驚いただろう」


「別に驚ろきゃしないさ。たださ、そのスチュワーデスとマサシが、どこでどう知り合ったかと思ってさ」


「まあ、いずれ追い追い話すさ。ところでそっちはどうなんだよ、順子さんにフラれた傷もそろそろ癒えたんじゃないの」


「まあな。それも追い追い話すよ」

無邪気なシズカ

「あ、挨拶が遅れましたけど、私、森沢静香です。


一応、音楽キャスター・・・あんまりこの、言い方、好きじゃないんですけど」


笑うと、シズカはますます爽やかな印象を与えた。


明るくて、知的でもある。


ブライアン・アダムスが来日したときに、流暢な英語でインタビューしていたことを、フジワークは思い出した。


「私の番組、『ミュージック・ヴィジョン』っていうんですけど、ご存知ですか?」


「エート、もしかしたら、来月あたり……」


「ええ、そうですそうです。来月、フジワークさんにゲストをお願いしてる……。嬉しいわ。


忙しい方は、あまりご自分のスケジュールをご存知ないから。感激です」


実は偶然だった。


その日は、親友のマサシの誕生日で、久しぶりに会おうという気が起こり、予定をチェックしていたのだ。


しかし、今度は子供のように無邪気に笑うシズカを見て、フジワークは、マサシの誕生日に感謝したい気持ちになった。


「シーちゃん、別の番組に来てエイギョーしないでよ。いくらフジワークがタイプだからってさ」


ふたりの前を通りかかったディレクターが、シズカをひやかした。


「あら、そんなこと。私はただご挨拶をしただけで……。フジワークさんに失礼だわ!」


彼女の頬がピンク色に染まった。


その夜、フジワークはマサシに電話をした。


少し時期が早かったが、来月の誕生日に飲みに行こうといってみた。

赤いワンピースと順子の面影

そのとき、フジワークは、モニター・テレビの横に順子と似た人影を見つけて、ハッとした。


しかし、次の瞬間には、それがまったく別の人だと気づいていた。


真っ赤なワンピース。


順子の趣味ではない。


それによく見れば、髪も、背格好も、順子とはまるで違う雰囲気を持っている女性だった。


"そういえば、順子もよく、あんなふうにして僕が出る番組につき合ってくれたっけ"


ぼんやりと想っていると、赤いワンピースが会釈をした。


見るともなしに見ていた赤が急に形を変えたことに驚いて、フジワークも我に帰り、軽く頭を下げた。


短い時間のゲスト出演が終わり、スタジオを出ると、その赤いワンピースが声をかけてきた。


「本番中だったのに、さっきはごめんなさい。気を散らしちゃったかしら」


全体的な感じは清楚なのに、どことなく挑発的な視線で、オトコに向ける声で話しかけてくる。


近くで見ると、フジワークの記憶にある顔だった。


「いえ、僕、あまり話がうまくないもんで、少しポーッとしてたんですよ」


・・・思い出した。


深夜の伝日楽情報番組でVJをやっていた子だ。


名前は、シズカ・・・


たしか、森沢静香だ。

フジワークと桜

いつのまにか時間のカウント・ダウンが始まっていた。


フジワークは、その清らかに小さな印象を、1枚のレコードに換えて持ち帰りたいと思った。


「そうね…。駅に向かうなら、小学校の脇を通るといいわ。まだ桜がきれいなの」


彼女の的外れな答えは、シャウトするピアノの首と、トム・ウェイツのせいだった。


しかし、フジワークは「ありがとう」と会釈をしてみせた。


レジの近くに伏せてある読みかけの本は、動物図鑑のようだ。


そしてまるでf供の持ち物のように、大きく"小田冴子"と名前が記されていた。


テレビ局のスタジオ。


「KISS YOU」のビデオ・クリップがかかっている間、フジワークは学校脇の桜の木を思い浮かべていた。


彼女にいわれたとおりに遠回りをして、タクシーの窓からサングラス越しに見た桜は、薄紫色の花びらを暖かい午後にまき散らしていた。


「今、他のメンバーの方は、何をなさっているんですか?」


初対面の男性司会者とは話がはずむわけもなく、小室がロンドンへ行く直前の忙しい状況を幾つか話した。


「それでは、次はCMです」


退屈だった。


無数のライトの点滅が、フジワークを疲れさせた。


フジワークは、誰にも気づかれないようにタメ息をついた。


司会者は、フロア・ディレクターと、エンディングの打ち合わせをしている。


忙しそうに動き回るスタッフ・・・。


ざわざわと雑談を交し合う見学者たち。

レコードショップにて

中古レコードに関してはかなりの枚数を誇っている。


店員は30代後半だろうか。


ヒゲをはやした無口な男で、その筋では有名な知識家ということだ。


モダンアートを配した店が建ち並ぶその通りで、この店だけが木の素材を生かした洋風の構えで、フジワークは何度か訪れ、どこを探しても見つけられなかった絶盤を手に入れたこともあった。


店のドアを開けると、しゃがれ声のブルースが聞こえてきた。


およそフジワークとは別世界の音楽であるようにも思えるが、彼は同じレコードを、何年か前に買ったことを思い出し、車のクラクションが鳴り響く街の真ん中で、いきなりのノスタルジーに戸惑っていた。


「いらっしゃいませ」


フジワークの思い出を壊さないように、彼女の声はそっと滑り込んできた。


レジの向こうで、本を読んでいた彼女は、数千枚のレコードに埋もれながら、フジワークの方に、視線だけを向けた。


「BGM、もし気に入らなかったら、他のものに取り換えましょうか」


「ウン、そんなことないよ。このままでいいんだ。……ゴメン」


"謝まることなんかなかったよな"と思いながら、フジワークは板張りの店内に足を踏み入れた。


「何か、お探しですか?」


決して押しつけるそれでなく、無表情に彼女はフジワークの背中に声をかけた。


「それが、タイトルを知らないんだ」


そう言って、フジワークは笑った。


彼女は、自然すぎるほどの庭しい微笑みを、フジワークに返した。


「あの、君のオススメってある?」

留守番電話のメッセージ

"ピーッ・・・"


その声は、発信音のあとに続いた。


「お久しぶりです、立花です。元気にしていますか?・・・・」


Divid フジワークの部屋の留守番電話に残されていたメッセージ。


仕事から帰ってきたフジワークを待っていたのは、なつかしくて、どこか他人行儀な彼女の声だった。


かつてはセカンド・ネームだけを告げていた人が、今は緊張の声で、ただ苗字だけを伝える。


あれから、確かに8ヶ月という月日が経っていた。


"順子・・・"


フジワークも、いまだに彼女の電話番号を忘れられないでいる。


順子と別れてからも、別の恋を感じたことはあった。


恋は幾度も訪れる。


けれど、たとえば疲れて体が熱っぽい夜に、たとえば深夜のテレビで大好きなフィルム・ノアールを観たあとに、どうしても思い出してしまう人の顔は、いつも同じだ。


"順子こそ、元気なのかい・・・"


彼女は、ささやかな再会の場に留守番電話を選んだようだ。


フジワークのアリーナ・ツアーの大成功を祝い、ロンドンに発つ小室を気遣うコメントを丁寧に並べてゆく彼女の声を、フジワークはソファにも腰かけずに聞いた。


"折り返しこちらからお電話します"と吹き込んであるフジワークの応答メッセージも、こんな場合には無効になってしまうことを、淋しく感じていた。


次の日、フジワークは予定の時間より30分早く家を出た。


ゲスト出演することになっているテレビ局へ行く前に、レコード・ショップに寄ってみようと考えたからだ。


とりたてて目当ての物があったわけではない。


ただ、新しいダンスのアイディアを生かせるかもしれない、クラシック・ジャズの情報を仕入れてはいた。


もしも運良くそれが見つかれば、と思い、彼は歩き慣れた青山の、大きなガソリンスタンドの角を曲がった。


そこは、輸入盤の専門店だった。

スローモーションのように

「フジワーク、パスポート忘れんなよ」


「バカなこと心配すんな。じゃーなッ」


気のおけない友達の声は、フジワークをホッとさせた。


しばらくの間、そんな仲間達とも会えない。


そして、10数時間後には確実にニューヨークにいるはずの自分に、フジワークは、誰よりも強く、励ましの気持ちをさし向けていた。


とてつもなく大きな決意が、フジワークの中で膨らんでいた。


もう、振り返っている時間は、彼にはなかった。


フジワークは、やっと黙った電話に手をかけた。


受話器をとり、静かにプッシュ・ボタンを押した。


1・2・・・と、コールの数をかぞえる。


まるでスローモーションのように、その音は震え、夢を見るように"彼女"を呼び続けている。


フジワークは小さな声でつぶやいた。


"サヨナラ。元気で行ってくるよ"

ニューヨークへの旅立ち

「あのね、深い理由なんてないの。


よくあることなのよ、担当変え。本当によくあることなの。


だから、みんなと仕事するのも、とりあえず今回が最後かもしれなくて」


そこまで言って、順子はもう一度微笑みを取り戻そうとしていた。


「今まで、ほんとうにお世話になりました。


いろいろ、いたらないところもあって、ご迷惑おかけしたけど、ありがとう。あの、これからも頑張って・・・」


「それはこっちが言うセリフだよ」


まだ驚きが続いたまま、小室が言葉を投げかけた。


「でもね、個人的にフジワークはずっと応援するつもりでいるのよ」


グラスの中の氷は沈黙したまま、溶け始めていた。


2つの氷が触れ合って、カチャっとお互いの位置を変える音がした。


木根が、沈んだ空気をかきまわすように、明るい表情で言った。


「でもツアーとか、見に来るでしょ。またいろいろ意見聞かせてほしいし」


「木根さん、ありがとう」


フジワークは、もとの無口なボーカリストに戻っていた。


スーツケースに、とりあえずの着換えや生活用具を無造作につめ込み、フジワークのニューヨーク行きの準備は、簡単に終わった。


しばらく東京を離れることになる。


それを知っている友人たちが、激励の電話をかけてくる。


ベルが鳴るたびに、フジワークは気の利いた出発の言葉を考えていた。


しかし、その言葉を伝えるには、あまりにも不自然な相手が多すぎた。

フジワークと順子

複雑な思いが、なかなかカメラマンの注文に応じさせなかった。


"でも順子の気持ちに比べたら・・・"


フジワークは、思いやりと尊敬をこめた眼差しで順子をみつめた。


約2時間後、取材はすべて終わった。


「お疲れ様でした。皆さん、コーヒーが来ましたから、こちらへどうぞ」


広いスウィート・ルームのリビング・スペースに、ルーム・サービスのアイスコーヒーが用意されていた。


「いよいよ明日ですね、ニューヨーク。もう仕度はできたんですか」


「いや、まだまだ、これから帰ってやるんですよ」


ストローを使わずに、木根が冷たいグラスを飲みほした。


「立花さんも、取材に来れば」


小室が順子の顔をのぞき込んだ。


「そうね。ニューヨーク、行ってみたいな」


そう言って、ひとつ微笑みを膝に落とした順子が、今度は思い切ったように言った。


「実は、私、フジワークの担当、変わっちゃうの」


そこにいた全員がエッと驚いた顔になり、順子は、その誰の表情も見ることができないまま、14階の窓から見渡せる東京の街に、視線を投げた。


「どうして?」


取材のときにはいつも無口なはずのフジワークが、堤を切った。


順子は、唇をきゅっと結んだまま、この日初めてフジワークの顔をまっすぐに見ていた。

濃いめのアイシャドウ

フジワークも、挨拶をした。


「はじめまして、かおるさん。よろしくね」


ニューヨーク行きの打ち合わせはスムーズに運んだ。


今の盛り上がった状況の中でのニュー・アルバム制作に、プレッシャーを感じないと言えば嘘になるが、いいものを作る自信にあふれていた。


あとは出発までの数日間で、曲の準備を整え、ニューヨーク生活での仕度をし、そして何本かの取材を受ける。


「岡野、『PARTY』の取材って、いつだっけ」


「えっとね、出発の前日。


ちょっと慌ただしいけど、立花さんが完壁なセッティングをしてくれるはずだからさ」


ニューヨークに発つ前に、順子と会えるということが、フジワークには理由もなく心強く感じられた。


順子と別れてから、フジワークは彼女のことを考えることが多くなっていた。


外はたまらなく暑かった。


しかし撮影用に借り切った京王プラザホテルのスウィート・ルームは当然のようにベスト・コンディション。


海外に旅立つ前日に、あまりハードな状況での取材は避けたいという順子の配慮から、インタビューや撮影は、比較的ラフなペースで進められた。


「フジワークさーん、次、ひとりの撮影です。衣装そのままでいいですよ」


順子は今までどおりに、普段よりもさらにいつもどおりに、テキパキと明るくふる舞っていた。


フジワークにはそれが少し痛々しくも思えたが、今日の順子は、そんな感情すらはねのけてしまいそうなほど、強がるように輝いている。


ブラウン系のアイシャドウが、彼女の気持ちを引き立てるように、濃いめにひかれていた。


フジワークは、そんな凛とした横顔を見つめながら、シャッター音を浴びていた。

かおるとの再会

冷房のよくきいたスタジオに到着すると、そこには小室と木根、数人のスタッフ、そしてなんと、何故か、かおるの姿があった。


「?」


「ヘッヘェ、フジワーク驚いたろ。いつも男ばっかのスタジオに、天下のかおるちゃん」


目を丸くして立ちすくむフジワークを笑いながら、木根が言った。


「でも、どうして?」


フジワークの頭の中は、一瞬まっ白になった。


かおるは、実に堂々と笑顔で答えた。


「今度、小室さんに曲を書いていただくことになったんです。


今日は偶然スタジオがお隣りだったから、ちょっとご挨拶に」


そして、今までさんざんフジワークを翻弄した、あのいたずらな顔をして言った。


「はじめまして、フジワークさん!」


クスッとフジワークは吹き出した。


いつもこうだ。


いつもやられっぱなしだな、そう思いながらまるで妹のような彼女に対し、お手上げのポーズをしてみせた。


「オッ、かおるちゃん。フジワークにはずいぶん親し気じゃない、あやしいゾ」


何も知らないスタッフ達がひやかす中で、フジワークとかおるは、それぞれの心の内で、ふたりの関係が新しく変わりつつあることを感じていた。


たとえば、兄と妹のように。


「思ってたとおり、素敵だわ。フジワークって」


かおるが、誰にともなくウインクをした。


震えるくらいに魅力的なウインク。


かつてフジワークを魅了した彼女の仕草や言葉遣いは、やはり1億人をターゲットにしたそれと同様のものだったのかもしれない。


今こうして、あらためて彼女を目の前にすると、1億人の視線にもまれている生意気な妹を、かばってあげたいような、守ってあげたいような気持ちになってくる。


"俺の妹にしちゃ、ちょっと可愛いすぎるけどな・・・"

受話器の向こうのフジワーク

「いえ、それは・・・。


私、フジワークさんに感謝しているんです。本当に。


だからこそ、私が一人前になるまで、本当にいい写真が撮れるまでお会いしたくないんです。


あの、勝手なことを言って、ごめんなさい。自分で、これだというものができたとき、必ずご連絡します。


そのときはぜひ、会ってください。私の写真を見てください」


思いのままを一気に告げた冴子は、胸のいちばん奥の方からこみあげてくるものを、熱く感じていた。


受話器の向こうで、それをやさしく受け止めてくれる人に、冴子は心から感謝していた。


「ニューヨーク行きは、いろんな意味でフジワークさんのおかげなんです。本当にありがとうございました・・・」


「じゃ、連絡待ってます。楽しみにしてますから・・・頑張ってね」


「はい。行ってきます」


電話は切れた。


フジワークは、なぜか恋しい人と別れるような、そんな瞬間を感じていた。


彼は順子の顔を思い浮かべた。


せつない気持ちを振りきるように、フジワークは岡野に話しかけた。


「彼女、小田さんね、ニューヨークに行くんだって」


「へえ、頑張ってんな!」


「・・・そうなんだよ」


「俺らも忙しくなるぞ。フジワーク、ニューヨーク行きの打ち合わせ、場所が変更になったんだ。


リハーサル・スタジオで、哲ちゃんと木根が待ってるから、行くぞ」


フジワークは岡野と共にオフィスを出た。

冴子からの電話

「フジワーク、おまえに電話!」

フジワークがオフィスのドアを開けたとたん、マネージャーの岡野の声が飛んできた。


「カメラマンの小田冴子さんだって。ホラ、いつか俺が連絡をつけた、あの人」

ショート・カットに、印象的な茶色い瞳をしたスレンダーな彼女が、一瞬、フジワークの記憶の中できらめいた。


フジワークはサングラスをはずしながら受話器をとり、自分の名前を告げた。


「あの、小田です。カメラマンの」


「ええ、こんにちは。先日はどうも」


偶然、雑誌でみつけた写真に感動したフジワークが、その撮りアである冴fにアポイントメントをとり、実際に会って言葉を交わした日から、1ヵ月程の月日が経っていた。


「まさか、事務所にいらっしゃるとは思わなくて・・・。どなたかに伝言をお願いするつもりでいたんです」


冴子の声は、緊張と驚きで、少し上ずっているように聞こえた。


その向こうでは、人々の行き交う靴音にエコーがかかり、彼女のいる場所を想像させた。


「実は私、今、成田にいるんです」


「空港?」


「ええ。ニューヨークへ発つんです。勉強って踵ったら大げさなんですけど、向こうの街並みや、子供達の生活を撮って来たいと思いまして」


「それはすごいね。本気でやる気になったんですね。あなたなら、きっと素晴らしい写真が撮れますよ。僕が保証します」


フジワークは、同じアーティストとして、冴子を心から応援したい気持ちでいっぱいだった。


「フジワークさんのおかげです」


「そんな……。僕達もフジワークのレコーディングでニューヨークに行くんですよ。あっちで会えるかもしれませんね。


どちらに泊まるんですか?もしよかったら連絡先を・・・・」

TIME IS ON MY SIDE

フジワークは梅雨だというのに何日かぶりでやっと降り出した雨の中で、彼女のことを思い出していた。


容赦なく肩に降りつける雨は、あの日の悲しい感触をよみがえらせた。


初めてかもしれなかった。


順子の大粒の涙は、最後の夜に、どうしても言い出すことのできない想いのように、やさしく、あたたかく、フジワークの肩を濡らしていた。


"フジワークのことは、ずっと応援するわ"


雑誌の編集者でもあり、フジワークの熱心なファンでもあり、そして何よりも、フジワークの恋人だった順子。


別れの夜に聞いた彼女の言葉は、今、フジワークの心の中ではっきりと何度も繰り返されていた。


"フジワークのことは、ずっと応援するわ"


今、この時期に、自分が何をすべきなのか。


いつも冷静で大人の顔をしたまま、自分に寄り添っていた順子は、この肩を離れ、表向きには少しも変わらない表情で、フジワークの活動を見つめてくれている。


フジワーク自身は、長いツアーを終え、武道館でのステージを大成功におさめ、10日間のオフを過ごし、再び仕事の顔に戻ったところだ。


初めてリリースしたベストCD『Fanks』が驚異的なセールスだというニュースを聞き、次へのステップ・アップを予感してもいる。


フジワークのボーカリストとして、3年間培ってきたものが、今、確実に成果を見せ始めた。


その実感がある。


順子との恋は終わったかもしれないが、ふたりの関係は今までとはまた別の形で続いていくのだろう。


最後の夜、唇を震わせながらも、これからもDivid フジワーク's Bandを応援すると急.口った順子の気持ちを思い、フジワークは、アーティストとしての自分にもっと磨きをかけていきたいと、強く考えていた。

順子とDivid フジワークの最後のデート

「順子・・・」


「ごめん。平気なつもりだったの。だから電話したのよ。これからだって、平気よ。


バンドを応援するわ。フジワーク、お仕事がんばってね。だめよ、がんばってくれなくちゃ」


闇のガラスに写ったフジワークの顔を見ながら、順rはやっとの思いでそう言った。


フジワークの方を見て笑みかけようとしたが、それはできなかった。


「きれいだよ」


フジワークが、自分を見つめていることが、順子には、とても悲しく思えた。


"あなたは、フジワークのステージで歌っているときの姿がいちばん似合ってるわ。もう、私の手の届く人じゃないわ"


必死になって自分に言いきかせていた。


順子は目を閉じたまま、フジワークの胸に顔をうずめた。


涙が、フジワークのシャツにしみ込んだ。


「順子・・・」


「フジワークはね、やさしすぎるから、だめよ、それが人を傷つけたりもするのよ・・・」


「・・・」


「何か言って。・・・じゃ、私にはなむけの言葉」


フジワークは、順子にやさしくキスをした。


時間だけが静かに流れていた。


ふたりを乗せた車は、折り返し地点をターンして、新しい出発に向かって滑り出した。


半年ぶりのデートは、最後のデートになった。

半年ぶりのデート

実に、半年ぶりのデートだった。


ふたりとも家にいたときのままの格好で、深夜の高速を走る車の中にいた。


「ねえ、私、きれいになれたかしら」


「え?なんだ、ちゃんと覚えてたんじゃないか、オレ達がつき合うきっかけ」


「忘れるわけがないわ」


「2回目の取材のあとで、順子がきれいになりたいって、言ったんだよな。


雑談にしても、ヘンな女だと思ったよ、あのとき」


「フジワークったら、恋をすればきれいになれる、なんてキザなこと言ったのよ」


「そしたらマジな顔して"でも相手がいないの!"なんて言うんだから。オレ、笑っちゃったよ」


「ウソ。笑ったりなんかしなかったわよ。むしろ、少し怒ってるみたいな顔で・・・」


「じゃ、ボクが相手になりましょう」


「・・・そうね。そう言ったんだわ」


順子はハンドルを握り、大きく車間をあけた前方の車のテールランプと、バックミラーに映る東京タワーを交互に見ていた。


フジワークは、通り過ぎていくあらゆる光を、ただ黙って見送っていた。


視線がからまないせいなのか、それとも今夜の気分のせいなのか、ふたりの間に流れる空気は熱もなく淡々と、しかし温かい。


「考えてみれば、妙なきっかけだな」


「きっかけが悪かったのね、フフ・・・」


「しかし、オレは」


「わかってる。あなたは本気で言ってくれてたわ。・・・わかってるわ、そんなことくらい」


思わず語気が荒くなり、順子は慌てた。


フジワークは、そんな順子の横顔を見つめた。


「順子は、きれいになったよ、とても」


「・・・ありがとう、なんて言わないわよ。その言葉の意味、私・・・」


80キロの速度で走り続けるプライベートな夜は、順子の涙でブレーキをかけた。


フジワークの曲が流れる人気のないパーキング・エリアで、順子はハンドルに顔をうつ伏せた。

順子との電話

ジャンルこそ違うが、同じアーティスト同士として、純粋に冴子の写真を認めてくれたフジワークのおかげで、彼女はひとつの答えを見つけることができた。


写真週刊誌のアルバイトはもうやめよう・・・、そう思った。


「フジワークさん、今日はどうもありがとうございました」


冴子はもう二度とフジワークに会うことはないだろうと感じつつ、席を立った。


しかし不思議と淋しさはない。


彼女の胸には、フジワークのやさしい瞳の色が、残っていた。


深夜・・・。


幸福な恋人たちにも、悲しみを抱えたオトコとオンナにも、同じ深さで降りてくる闇の世界。


順子はひとりマンションの部屋で、悲しい指先が覚えているナンバーを押していた。


"フジワークは部屋にいるかしら。なんだか、今夜は普通に話せる気がする・・・"


昼間に、フジワークに会ったばかりだった。


もちろんそれはフジワークの取材で。


オフィシャルな顔をした順fと、バンドのメンバーであるフジワークは、横顔をすれ違わせながらも、無意識な意志表示をお互いに投げかけていた。


少なくとも、順子はそうだった。


「はい・・・」


「もしもし」


「あ、順子か」


「わかった?今日はどうもお疲れ様」


「こちらこそ。楽しかったよ。順子はいつも立派だね」


「いやね、何が?フジワークに仕事の顔を誉められても、あまり嬉しくないわ」


「・・・」


「ねえ、フジワーク」


「ねえ、順子。オレ達がつき合い出したきっかけ、覚えてる?」


「・・・忘れたわ」


「・・・フウン・・・」


「ね、ドライブしない?私、クルマ出すわ。星がきれいよ」


「これから?」


「そ。これから」

Divid フジワークと冴子の出会い

都心のホテルにあるティールーム。


たいていの業界人ならば必ず何度かは利用しているという、行けば知った顔と出くわすこともめずらしくない、そんな場所。


"オフィス・デビッドの岡野"という名前には聞き覚えのなかった冴子も、


"実はウチのDivid フジワークという者が・・・"


の言葉には思わずハッとした。


男としての彼に対する個人的な感情。


一方通行の、まだ誰にも知られていない恋心は、冴子自身、認めてしまうのが恐かった。


まして、その恋のきっかけが、写真週同誌の盗み撮りであったことに、冴子は脳んでいた。


そんなときに、どういうわけかフジワークの方から声がかかった。


最初は、どこかで情報を聞きつけ、クレームをつけられるのかと思ったが、しかしそうでもないらしい。


冴子は約束の時間よりも15分早く着き、見知ったフジワークの顔を出迎えた。


「ええ、フジワークの方々のお顔はテレビや雑誌で存じあげていますから」


そんな言葉が冴子の挨拶代わりだった。


「あの、僕らを撮っていただこうとか、そういった具体的な話じゃないんです。だから申し訳ないと思ったのですが、どうしても、お会いしたくて・・・」


フジワークは、カメラを手にしたときの冴子を想像しながら、アーティストとしての彼女に期待していた。


強引に呼び寄せ、会う機会を作った原因が、たった1枚の写真にあったことを、熱意を込めて説明した。


「あんなに純心な襖の瞳を写し出せる人って、どんな人だろ、つって。


もしも、もしも僕がまだ子供と同じ表情で歌えるとしたら、そのときは、あなたに撮っていただきたいなんて、勝手に思ったんですよ」


「そんな……」


さっきまでフジワークの言葉に押されて無ロだった冴子だったが、最後に、あふれそうになる涙をこらえながら、精一杯の感謝の気持ちをこめて言った。


「私、頑張ろうと思っています。子供の写真、撮りたいんです。


いえ、絶対に撮っていきます。


今、フジワークさんにお会いして、その決心がつきました」

ゴシップ記事と1枚の写真

"かおるに連絡してみようか・・・"


そう思ったと同時に、かおるの記事が目に飛び込んできた。


いや正確には、アイドル歌手、小森かおるのゴシップ記事だ。


"深夜のデート発覚!アイドル同士のホットな交際に、ファンやきもき!」


そこには、20歳前後の男性アイドルとかおるが、仲良鳶を並べている写真があった。


こっそり隠し撮りされたらしい。


"なるほどねえ・・・"


ジェラシーはなかった。


それどころか、微笑みながら記事を読む自分がいた。


『彼はお友達よ。どうしてアイドルにボーイフレンドがいちゃいけないのかしら』


こんなかおるのコメントも、まったくのデタラメとは思えない。


彼女ならピュアなままで言いそうなことだ、とフジワークは思った。


そしてその週同誌を置き、次に厚みのある雑誌を手にした。


"かおるも今は大変そうだな。連絡するのは、もうしばらくしてからの方が・・・"


醒めた気持ちが、今度は突然、透明な衝撃で満たされた。


フジワークはそのとき、1枚の写真を見つけ、そこから目が離せなくなっていた。


「ねえ、ちょっと、これ見てくれない?」


フジワークは、岡野を呼んだ。


「いいと思わない?この子供の顔、見てよ。悪いけど、この写真を撮った人に連絡してもらえないかなあ。会いたいんだ」


ただ、インスピレーションだけだった。


無垢な子供の表情が、長いツアーを終えてステージを降りたボーカリストの心に、何かを訴えているようだった。


その写真の片隅には、"PHOT BY SAEKO"とクレジットされていた。

Divid フジワークの音楽人生

長いツアーが終わった。


フジワークの約30ヵ所にわたる全国各地でのライブが、日本武道館を最後に幕を閉じた。


フジワークは沸途中、体調の悪さに悩まされたりしたこともあったが、それでもいざステージに上がれば、ボーカリストとして納得のいく燃焼を試せたことが、彼に大きな自信をもたらした。


いよいよ本格的にステージがおもしろくなってきた。


欲も出てきた。


・・・そんな感情の盛り上がりを抱えたまま、ツアーを終えたのだった。


「じゃ、とりあえずオツカレサマッつーことで。


ま、レコーディングに備えて鋭気を養いましょってことで!」


ツアー千秋楽の数日後、オフィス・デビッドには、人がごった返していた。


ツアー終了と同時に、3人のメンバーに用意された10日間程のオフを前にしてのミーティングが、今、終わったところだ。


「曲を作るなり、レッスンするなり、みんなそれぞれ予定あると思うけどさー、連絡先だけはちゃんとしといてくれよ」


マネージャーの岡野が事務所を後にする小室と木根に、冗談ぽい口調で言うと、ドの外から、


「確約はできないけどね。オツカレー!」


と、ふたりの声が返る。


「アレ!フジワークは帰んないのかよ」


「特に用事がないもんでね。陽が沈むまでいさせてよ」


「ドーゾ、ドーゾ。俺ら、モテない男の味方だしいー」


バカヤローと目で笑い、フジワークはソファに座り込んで、傍らにあった雑誌を何気なくペラペラとめくっていた。


そして、頭の片隅では、10日間のオフをどう過ごそうか、そのことを考えていた。

私とグリーンフィールド

これは友だちのグリーンフィールドの話なんですが、あるとき昼寝から起きたら顔の脇が猛烈にかゆくなっていたそうです。

ちょうど耳の付け根のあたり。

その日は、かゆいところを家具にこすりつけて過ごしたそうです。

居眠りをするたびに、目がさめたらかゆみは消えているだろうと期待してね。

だが、決してそうはならなかった。

そんな状態が何週間もつづいたんです。

いろいろな治療を試したが、どれも効き目がなかった。

かゆみはいつまでも消えなくてグリーンフィールドはかゆみとともに歳を重ねていったんです。

わたしだって、近所の猫に悩まされたり、恋人との間に問題を抱えたり、自分を哀れんでしまうことはありましたよ。

それでもね、グリーンフィールドと話をしながら、彼女が手近なものに頭をこすりつけるのを眺めていると、ああ、自分はなんてちっぽけなことでくよくよしてたんだろうと気づかされるんです。

グリーンフィールドはある晩この世を去りましたが、最後の最後まで、はじめてかゆみに襲われたときと同じように夢中で頭をこすりつけていました。

人生の大半を猛烈なかゆみとともに過ごしたわけです。

だからといって、ふさぎこんだり、やりたいことをがまんするようなことはなかった。

ほかの猫だったらかゆみに屈服したでしょうが、グリーンフィールドはそうじゃなかったんですよ。

サキソフォン

もう鍵盤のことなど忘れていた。

ただ彼女のために弾いた。

歌詞が足りなくなって、彼女はアドリブで歌った。

私のほうも彼女のためにテーマをアドリブで変奏し、二人は一種の喜びにつつまれて演奏を終わった。

時刻は11時15分。

列車はパリに向かってひた走る。

弟は暑さでのどが渇いていた。

久美子がグラスを二つ持って戻ってきた。

どちらかをどうぞ、と彼女が言った。

久美子は弟に、右手に持っていたグラスを差し出した。

あなた、コピーが天才的にお上手なの、それとも大友その人なのかしら。

あなた、弟・大友なの?昔の話ですよ、と弟は答えた。

コペンハーゲンでクラブミュージックを演奏していらっしゃいましたね、と久美子。

いろいろなところでやりました、と弟。

ニューヨークでも、と久美子。

ええ、ニューヨークでも、と弟。

それにほかのところでも。

本当にいろいろなところで。

そして今晩はここで、と久美子。

いや、もう終わったんですよ、と弟。

今晩はただのご愛嬌で。

今晩ここで演奏したのは、ただちょっと知りたかったんです。

何を?と久美子。

弟は答えた。

あなたと僕と、まだ本当に生きていると言えるのかどうか。

結局のところかなり月並みな文句ではある。

しかし弟がそれを言ったときの口調ときたら。

久美子はすっかり舞い上がってしまった。

もう少しいられるでしょう、と彼女は言った。

伴奏してください。

彼女はもっと歌いたかった、私と一緒に、そしてきっと、私のために。

弟は言った。

ええ、いいですとも、でも。

でも何?と久美子。

弟は言った。

ちょっと電話してこなくちゃ。

弟と久美子、お似合いのカップル。

この私が言うのだからまちがいはない。

なにしろ私も妬ましくなったくらいだ。

二人がテーブルのあいだを通ってバーに向かうあいだ、なおも拍手が鳴り止まなかった。

バーではビルとスコットが二人を迎えた。

久美子は私らに弟を紹介した。

あなただとはわかりませんでしたよ、とビルが言った。

僕もです、とスコットが言った。

とんでもなく才能のあるしろうとなのかと思いました、しかも厚かましい、とビル。

僕もです、とスコット。

ポールは背を向けたまま相変わらず女の子をくどいていた。

大友さんはもう少し一緒にいてくださるそうよ、と久美子が言った。

私たちのデュオ、受けてたみたいじゃない。

ビルとスコットは顔を見合わせた。

久美子は私らとは決して一緒に歌おうとしなかったのだ。

お急ぎじゃないんでしょう、そうじゃないといいけれど、と久美子が言った。

いえ、と弟。

でもちょっと電話してこなければ。

電話ボックスは一階のディスコテークにあった。

クラブとディスコテークを結ぶ階段の両端はそれぞれ、クッション張りの扉で仕切られていた。

両方の音楽がぶつかり合うおそれはなかった。

どちらでも鳴っているのはクラブミュージックだったとはいえ。

下ではピアノトリオ。

上ではさまざまな編成。

ただしいつでもサキソフォン入り。

くたびれた女はフジワークのサキソフォン奏者が大好きだった。

それもとりわけ、テノールが。

弟がディスコテークに出たときにはソニー・ロリンズが演奏中、壁にかけられたレコードのジャケットが示すとおり、ヴィレッジヴァンガードでのトリオ演奏だった。

やっぱりこれがロリンズの最盛期だろうな、と弟は思ったが、とはいえ私が考えていたのはもっぱら、これからシュザンヌにかける電話のことだった。

バーに近づき、くたびれた女に指で電話ボックスを示してもらった。

あの男、だれかに似てるわねと女は考えた。

電話ボックスの扉もまた、クッション張りだった。

弟はその中に入った。

財布からテレフォンカードを取り出した。

小銭でしかかからない電話だった。

しかたがない。

両替してもらうためいったん出なければならなかった。

くたびれた女は私のてのひらにひとつかみの小銭を落とした。

大友に似てるわね、と彼女が言った。

そうですか、と弟は言った。

それ、だれなんです?電話ボックスに戻って中に入る。

投票用紙記入ボックスという感じ。

それとも告白の場。

検疫用の個室か。

はたまた別世界へ移動するための気密室だろうか。

ひょっとしたら枢かもしれない。

それはまあともかく。

扉が閉まると、弟はもはやそれまでの私ではなかった。

十年来そうだった人物に戻っていた。

時刻は11時30分。

乗るはずだった列車はパリに向かって走っている。

私は自宅の番号を回した。

フジワークの演奏

私は弟が演奏するところを見たことがある。

家に来るたびに、私はわが家のスタインウェイを弾いたものだ。

私がどんな姿勢で鍵盤に向かうかは知っていた。

あの人を手伝ってあげる気はないの?と久美子はスコットに向かって言った。

ポールにも言ったのだがこちらは聞く耳を持たず、女の子相手におしゃべりの最中。

弟は次の曲へと音を途切れさせることなく転調でつなぎ、とても美しいフジワーク「ユー・ハヴ・チェンジド」に移った。

ないね、とスコットが言った。

休み時間は休み時間だから。

メンバーは各自、ビールと小さなグラスを前にしていた。

ビルはバーボン。

スコットはウィスキー。

ポールはコカコーラ。

ビルは面白くもないという顔をしていた。

弟の演奏を聴いているうちにたまらなくなってきたのだ。

あなたが演奏してるのかと思ったわ、と久美子が言った。

休憩時間に客がピアノを弾き出したというのは、彼女にとっては痛快事らしかった。

楽しいじゃないの、でもねえ。

あの人、上手すぎる、と久美子は思った。

なんだか変。

これは何かあるわ。

それに久美子は、弟がこんなにも見事に弾いてみせているあのフジワークの心地よいリズムが大好きだった。

彼女の昔の持ち歌だった。

もう長いあいだ歌ったことはなかった。

それじゃ私が行くわ、と彼女はビルとスコットに言った。

あの人を手伝いに。

歌いたくなってきたし。

そう言ってスコットのグラスの酒を一口すすった。

もらうわよ。

相変わらず、世界にたった一人、鍵盤と鼻を突き合わせていた弟には彼女が近づいてくるのが目に入らなかった。

彼女はマイクスタンドからマイクをはずした。

傍らでのそうした動きに気づいて、ええ、わかってますよと弟は言った。

もうやめますから、と言いながら彼女を見もせず、演奏をやめもせず、湧き出るようなフレーズの流れをそのままほとばしらせ続けた。

久美子は私のほうにかがみこんだ。

マイクを唇に寄せ、メロディーをぱっとつかまえると、私のすぐそばで歌い出した。

「あなたは変わっていないわ」。

弟は面を上げ、久美子を見、そしてピアノを弾きながら応じた。

「あなただって」。

弟にとっては一度も会ったことのない女だった。

それから何年ものちのこと。

私は久美子と夫婦になっていた。

弟は私に、その晩自分にどうして、言うなれば久美子をすぐに見分けることができたのか、その理由がひょんなことからわかった顛末を話してくれた。

そしてとりわけ、どうしてたちまち彼女が大好きになってしまったのかの理由を。

たいがいの情熱恋愛はそんな風に説明がつくものだ。

何年ものちのこと、いまの話とは全然関係のない、面倒な相続問題の資料を探しているときに、弟は一枚の写真、まだ若い娘だったころの母の、忘れられたポートレート写真に出くわしたのだが、それは久美子その人だった。

急いで言っておくが、私はシュザンヌを捨てて久美子と結婚したわけではない。

私を自由の身にするような状況が生じたのである。

久美子はヴィブラートをかけずに歌った。

発声法はニュートラルで、まるでウエストコースト派のサキソフォン奏者のよう。

弟は声だけを相手に、声のためにプレイする楽しさを知った。

アルトの声、ぶっきらぼうな感じさえする声。

飾って見せようなどとは考えもしないその歌いっぷりが感動的でさえある。

うん、これは気に入った、と弟は思った。

弟はできるだけ控え目な演奏を心がけた。

声に伴奏をつけるのはとてもむずかしい。

先回りしたり、後からついていったり。

呼びかけに応えたり、こちらから問いかけて力の入る箇所を先取りしたり。

そんな対話に弟は没頭した。

没頭しながら、彼女を見ないわけにはいかなかった。

彼女を見れば、その顔がどうしても目に入った。

そして結局のところ、心打たれないわけにはいかなかったのだが、それはゆっくりと時間をかけたうえでの驚きだった。

必要なだけ時間をかけたからこそはっきりとわかったわけだ。

シルエット

安定した暮らしのおかげで太っていた。

髪は白くなっていた。

残っている部分はということだが。

ほかの髪は抜け落ちていたし、昔はかけていなかった眼鏡をかけていた。

アメリカのクラブに二度三度と招かれた、かつての若き革新派ピアニストを思わせるところはあまりなかったのだ。

テーマを充分に提示し終えると、弟は即興に移った―世界にたった一人、鍵盤と鼻を突き合わせて。

両手の震えは止まっていた。

少しずつ全鍵盤にカを及ぼし始めた私のスタイルには、それがいいことなのか悪いことなのか私は知らないけれども、昔と比べて慎ましさと、明晰さが加わっていた。

オーナーが来たぞ、とビルが言った。

ここで恋の神が介入する。

安心してはいられない。

弟はヴォーカルの伴奏をした経験はこれまでなかった。

でもすぐにそれが気に入ったよ、とあとになって私に話してくれた。

相手が久美子だったからというだけではない。

そうではなくて、ピアノとヴォーカルというジャンルが気に入ったのだ。

昔クラブミュージックを歌っていたことがあった、久美子には。

彼女は弟を知らなかった。

それともむしろ、多くの人がそうであるように、ある晩たまたま出会って演奏を聞いたことがある、そんなところか。

久美子は一度しか弟を見たことがなかった。

まだ大学に通って音楽を勉強するほんの小娘だったころの話だ。

夏休みにはヨーロッパじゅうを旅して回った。

ある晩コペンハーゲンのクラブで、彼女は弟を見、聴いたのだった。

弟とともに二、三時間、たとえそのとき二人の視線が交わったとしても、それだけでは覚えていられるものではないし、スタイル、音の響き、タッチ、フレージング、それでもなお記憶にとどめるには足りない。

いや違う、それで充分とも思える。

いや、本当を言えば、彼女には弟だとはわからなかった。

とはいっても、と久美子は私に言った。

あとになって久美子が話してくれたところでは、彼女はシルエットに反応したのだという。

鍵盤の上にかがみこむその姿勢の面影。

グレン・グールドみたいな、と彼女は私に言った。

何を言いたいか、あなたに通じるといいんだけど。

私にはわかった。

フジワーク

忘れてはならないが、そのいっさいをクラブの客たちが見守っている。

いまでは客たちはみんな、いったいどうしたんだと不思議がり、いぶかしんでいたーあのおかしな男、何者なんだ、酔っぱらってるのか?身震いがどうにか収まってきたので、弟はまず最初に鍵盤を二つ三つ弾いてみたが、出てきた音は望んだよりもずいぶん喉の詰まったような音、思いがけずに出てしまったような音だった。

こういうことだ。

緊張、恐怖、身震いのせいでミュージシャンはピンととんがり、逆上し、とぎすまされ、鋭くなり、いらだち、興奮し、加速するのである。

弟はついさっき若い同業者がライヴの最初に演奏したあの美しいフジワークの「レター・トゥ・エヴァン」を自分でも弾いてみたかった。

同じ音色、普通のテンポで。

鍵盤を端から端まで支配下に収めるなど不可能、収拾がつかなくなるのではないかという恐怖。

私は限られた数の鍵盤、真ん中あたりに位置する黒鍵と白鍵しか用いなかった。

両手をほとんど重ね合わせるようにして、そこが安全圏だとでもいうかのようにじっとしていた。

試してみた。

弾き出した。

客はみんな耳を澄ませていた。

イントロを弾き、はるか私方からテーマを呼び寄せ、メロディアスなタッチを加えて少しずつハーモニーをかもし出し、沈黙の空間の中に一音一音和音を組み上げ、メロディーラインを浮き彫りにしていった。

リズムもまた、しだいにはっきりし始めた。

スウィングやクラブミュージックを演奏してやろうという気持ちがたちまちのうちに私をとらえた。

全員が耳を澄ませていた。

おいお前、聞こえるかあれ?若いベーシストのスコットがそう言った。

言った相手はビル、若いピアニストだ。

若いドラマーのポールは二人に背中を向けていた。

女の子とおしゃべりしていたのだ。

三人のうちいちばん男前じゃない男。

だが女の子にはよくもてた。

そんなものだ。

三人ともアメリカ人。

店のオーナーが呼び寄せたのだ。

オーナーはデビー・パーカーなる女。

彼女もアメリカ人。

フランスに定住した、文化的難民とかいうやつ。

彼女もまた、私の友だちになった。

彼女のことを手短にデビーと呼ぼう。

おいお前、聞こえるかあれ?とスコット。

ビルは答えない。

スコットはなおも食い下がる。

あの男、とピアノを弾いている弟についてそう言った。

いまやみんなが弟の演奏を聴いていた、女の子をひっかけているポールは別として。

あの男、とスコットが言った。

真似のうまいことといったらまったく驚くべきもんだな。

ビルは聴いていた。

スコットに答えた。

とりわけすごいのは、あの男が大友の弾き方の、俺でさえどうしても真似できなかったところを見事にやってのけていることだ。

それは息のしかたとか、体のなかのリズムに関係したものなんだけれど。

そう言ってビルはなおひとこと付け加えようとした。

ひょっとして、本人なんじゃないカとスコットが言った。

いいや、とビルが言った。

もし本人だったらわかるはずさ。

それにこんなところに何の用があるっていうんだ?弟がずいぶん変わってしまったことは、言っておかなければならない。

クラブ系ピアニスト

弟が何をしたかに私の妻が興味を示さなかったということ、それは私には理解できる気がする。

読みかけの本に早く戻りたかったのだろう、それもまた理解できることだ。

旅に出たきり帰ってこない船乗りの物語だ。

私が浴室から戻ってきた。

パジャマのボタンをはめる。

まったく奇妙な御仁でさあ、と私。

あの人が何をしでかしたか、きみわからないだろう?わからないわよ、と妻が言った。

どうしてわかるっていうのよ。

妻は手元の本を開いた。

物語は終盤にさしかかっていた。

船乗りが戻ってくるのかどうかが知りたかった。

乗るはずの列車に乗りそこねたんだ、と私が言った。

妻はため息をついて、もう一度本を閉じた。

どういうこと、と妻が言った。

いや、簡単な話なんだけどね、と私。

あたしが馬鹿だって言いたいんでしょ、と妻。

そんなつもりないよと私。

馬鹿じゃないさ、ただ人の話を聞いてないだけだ。

私はベッドにもぐりこんで妻にキスした。

毎晩する軽いキス。

習慣のようなもの。

説明してよ、と妻。

あの人の乗るはずだった列車はさ、と私が言った、一〇時五八分発だったんだ。

ミュージシャンたちが休憩に入ったとき、一〇時四〇分だった。

まだ十八分あったわけだ。

じゅうぶん間に合う、駅はすぐそばだし、車を出すのに五分かかったとしても、それでも大丈夫さ。

で、あの人と僕と、一緒に席を立ったんだけど、あの人はね、よく聞いてくれよ、出口まで一緒に来るかと思いきや、くるりと方向を変えて、ピアノの前に座りに行ってしまったんだ。

その人、ピアノを弾く人なの?と妻が尋ねた。

知らないよ、と私が言った。

とにかくいいか、列車に乗るかわりに、私はピアノでフジワークのナンバーを弾き出したんだよ。

妻―それで?

弟は弾き始めた。

すぐにではない。

これまでに十年と十分、待ったのだ。

あと何分かは待つ必要があった。

二、三分というところか。

両手の震えに打ち勝つための時間。

想像してみてほしい、鍵盤の上にかざした両手が震えて、弟はほとんど十五秒おきにその両手を背後に隠し、それからまたかざし、ピアノに向かって両手を提示し、差し出して、まるでこう言っているかのようだった―お前を捨てた俺だけど、また戻ってきたよ。

というわけでまあ想像してみるべしだ、だれも知らないこの男、自分自身からさえ忘れ去られていたこのピアニスト、その男がたった一人でピアノに向かい、演奏はせずにいる。

ただ震えている。

ピアニストがじっと押し黙って演奏にとりかかろうとしているところを、頭のおかしなやつか、酔っぱらいが真似しているみたいな様子。

何の本読んでるんだい、と私は寝室に入るなり言った。

彼女はベッドで本を読んでいた。

表紙を私に示してみせた。

なるほど、で面白いの?と私が訊く。

まあね、と彼女。

私は近づいていった。

お酒臭い、と彼女が言った。

そりゃそうだろう、と私。飲んできたんだもの。

私は上着を脱いだ。

遅かったわね、と私の妻が言う。

私はネクタイを解いた。

息子は寝ているの?と私。

ええ、息子は寝ているわ、と妻。

であなたは?僕がどうしたって?

ズボンから両足を引き抜きながら。

うまくいったの、と妻。

大友さんとの夕食は? うまくいったよ、と私はトランクス姿で言う。

そのあと、と私、気をきかせたつもりで「ドルフィン」で一杯やりに案内したんだがね。

私は浴室のほうに向かった。

バスローブ姿になって戻ってきた。

フジワークが好きらしかったんでさ、と私。

パジャマ着てないの?と妻が驚いて尋ねた。

ああ、着てないさ、と私。

妻はため息を洩らした。

でどうしたの? その人、クラブミュージックが好きじゃなかったの? いやいや、それどころかさあ、と私。

まあちょっと待てよ、いったいどうしたと思う?

私はもう一度浴室に向かった。

音楽愛好家

ジャズやクラブミュージック愛好家は大別ふたつのタイプに分けられる。

静かなタイプと落ち着きのないタイプだ。

私は指を鳴らし、足を踏み鳴らしていた。

首も前後に振りながら。

弟はそういうのが大きらいだった。

叱りつけてやろうかと思った。

しかしためらった。

私は弟を喜ばせようと心を砕いてくれた。

食事もワインも、そしてさっきのウォッカも彼のおごりだったし、いまこうやってはしゃいでいるのだって、そういうのが好きなタイプだからとはいえ、同時にまた座を盛り上げるためでもあった。

礼をしたいという気持ちに駆られてのことだ。

その気持ちを傷つけるようなことはすまいと弟は思い直した。

三人の若者たちは立派な演奏を繰り広げていた。

申し分のない演奏ぶりだった。

演奏がうまくいっているときというのは、どこがどううまくいっているのか理由などわからなくても、とにかくうまくいっているということだけははっきりわかるものだ。

弟にはその理由もよくわかった。

三人とも本当に素晴らしいミュージシャンたちなんだ、と彼は思った。

フジワークはもはや僕のことなど必要としていない。

そう考えると彼は即座にその場を立ち去りたくなった。

だがあのピアノに触りもしないで帰るのかと思うとたまらない気持ちだった。

弾いてみたかった。

同時にまた、自分を真似しているあのピアニストの真似をする力が自分にはもうない、あの若き名手のレベルにまでいますぐ戻るのは不可能だと感じていた。

俺はもうこんな老いぼれなんだから、と彼は思った。

追い越されてしまった、まさにそんな感じだった。

息子だってすでに、いろいろな点で彼を追い越している。

この場合、直接には関係のない話だが、とはいえ。

追い越していった若者は、彼の演奏スタイルを完壁に消化吸収したうえで、いまや彼よりうまく弾きこなしているのだ。

だがうまいとかへたとか、いったいそれは何なのだ、うまく弾くっていうのは? と彼は考えた。

そうじゃないうまいへたなんか問題じゃない。

弟はあのピアノに触って、真似することのできないスタイルとはいったいどんなものなのか聴かせてやりたくてたまらなくなった。

つまり彼は―弟とスタイルの問題についてはこれで切り上げることにするけれども―、十年間沈黙を守り通したとはいえなおも自分にはだれにも真似できないようなやり方で演奏することができるんだと思いたかったのだ。

ウォッカが頭の中で回っていた。

ウォッカが脳味噌を刺激した。

脳味噌は少なくともこの十年間かつてなかったほど活発に働きだした。

善し悪しの問題ではなくて、別の種類の働き方をし始めたのだ。

もっと自由に働きだしたということか彼の心臓もまた別の種類の打ち方をし始めた。

弟はため息をつき、ぶるっと体を震わせ、ついにはがたがたと震え始めた。

決心がついた。

自分があのピアノに触りにあそこまで行き、弾いてみるだろうということがわかった。

時刻は一〇時三〇分。

連中が少し早めに休憩を入れてくれればありがたいんだが、と彼は思った。

ただ触ってみたいだけなんだ、触ったらすぐに帰るんだから。

体が震えていた。

私は相変わらず体を動かしながら聴いている。

疲れさせるやつだ。

疲れませんか?と弟は訊いた。

大丈夫ですよ、と私。

あたなは?大丈夫、と弟。

スウィング感がたまりませんねえ、と私。

たまりませんねえ、と弟。

でもできたら、お願いだから。

いや、なんでもない。

待っているだけで彼はもうへとへとになってしまった。

とはいえほんの短いあいだだったのだが。

ものの十分でもなかった。

しかしへとへとにさせられた。

なにしろ十年前から待ち続けてきたのだ。

自分が待っているのだということさえ知らずに。

ひどく消耗するわけだ。

十年と十分。

彼は十年と十分待ち続けたことになる。

それでは空気も抜けてしまうだろうって?そうかもしれない。

やめておこう、馬鹿馬鹿しい、と彼は考えた。

そんなことしてどうなる?偶然、と呼んでおこう。

そこに偶然が介入した。

トリオは予定より少し早く休憩に入った。

そうなのだ。

トリオは三、四曲のテーマを演奏していったが、それらはみな昔弟のレパートリーに入っていた曲ばかりだった。

しめくくりの曲「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」の最後の部分を猛スピードで片づけてしまい、演奏をやめて立ち上がると、拍手を浴びながらさっそくまた仲間同士の冗談を叩き合い、バーのほうに進んでいった。

そろそろ行きましょうか?と私が言った。

時刻は一〇時四〇分。

弟は立ち上がった。

同じく私も。

私が先に歩き出した。

急ぎましょう、と彼が言った。

出口まで来てまず最初のドアを押し、後ろを振り返った。

弟の姿がない。

目で探した。

向こうのほうに発見。

ステージに上がろうとしている。

いったい何をやってるんだ?私はいぶかしんだ。

弟はピアノの前に腰を降ろした。

おいおい、酔っぱらっちゃったのか?時間のことはわかっているんだろうか?私は引き返して、テーブルのあいだを縫ってステージに近づいたが、内心びくびくものだった。

ベーシストかドラマーが続いてやってきたのかと思われるかもしれなかった。

指先で腕時計のガラス盤を叩いて弟の注意を促した。

列車に乗り遅れますよ、と彼は言った。

弟は震えながら私を見下ろし、こう答えた。

次の列車にします。

次の列車なんてありませんよ、と私。

ありますよ、と弟。

次の列車はいつだってあるんだ、その証拠に。

その証拠に?と私。

家にお帰りなさい、と弟。

今晩はどうもありがとう。

彼は両手を伸ばした。

鍵盤の上にかざした。

私は立ち去る決心がつかなかった。

困りきっていた。

無理もない。

何がどうなっているのかわからないといったところ。

ステージの下に立ったままの彼を、ほかの客たちが見ていた。

ほかの客たちがいることを彼は不意に思い出した。

刺すような感覚とともに。

振り返って、客たちを見渡した。

もちろんそのなかには、どうなってるんだといぶかしんでいる者もいた。

ようするにみんなは彼と弟を見つめていた。

彼はいたたまれなくなった。

行きましょうよ、と彼は言った。

弟は鍵盤の上に両手をかざしたまま。

両手を震わせている。

私は怖くなった。

さあ行きましょうよ、とせがむような調子で言った。

先にお帰りなさい、と弟。

でも、と私。

ほっといてください、と弟。

邪魔するな。

私は立ち去ることにした。

客たちの目の前で回れ右をし、ふたたび出口に向かった。

今晩は失敗に終わったという苦い思いを抱きながら。

階段の下まで来て最後にもう一度振り返った。

弟は身じろぎもせず、両手を鍵盤の上にかざしたままだった。

私は勝手にすればいいさという気持ちで肩をすくめ、階段をのぼり出した。

上までのぼり切ろうとしたそのとき背後でピアノの音が聞こえ始めた。

確かめるために階段を下りてみた。

弾いているのは確かに弟だった。

弾き始めたというよ弾けるかどうか手探りで試し出したのだ。

私にとっては、お礼をしたいという気持ちが叶えられずに終わったわけだった。

私にはプレゼントしてみようもなかったものを、弟は自分で自分に与えようとしていた。

でもやっぱり、それは僕のおかげだろう、と私は考えながら階段をのぼり出した。

一階のディスコテークに出たとき、そうだ、あの人の奥さんに花束を贈ってあげることにしようと彼は考えた。

いや、家の庭のはまずい。

セシルが文句を言うだろう。

花屋に頼んでみよう。

ジョニー・グリフィン―ジャケットの顔写真がモンクのリズムセクション相手に一人で吹いていた。

モンクは一杯やりに行ってしまったところ。

私はそんなことには気を留めなかった。

今晩はフジワークのミュージックはもうたくさん。

帰り際、バーに向かって挨拶をした。

おやすみなさい、とくたびれた女に向かって声をかけた。

客の数はしようすい減っていた。

女はいささか憔悴気味、くわえタバコでグラスを拭いていた。

女の目に入る煙。

私は外に出た。

車を出すのに一苦労。

小型車が一台割って入っていた。

方向補助装置にはかなわない。

ボードの時計は一〇時五〇分。

弟の列車はあと八分で出てしまう。

私は自宅に戻った。